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講義「経済思想」小レポート 2012

原発問題

 


 

経済思想 小レポート「無責任の体制」の克服

                     17100010 梅田綾香     72

 

 2011311日に発生した東日本大震災と、それに続く福島の原発事故は、私たち日本人に絶大な影響を与え、今までの価値観や生活を一変させた。そして、これは、かつての「明治維新」や「敗戦」などと同じく歴史上の大きな転換点として捉えられる。大震災が発生したことは自然現象であって、たとえある程度予測ができたとしても、人間がそれを未然に防ぐことは不可能だった。しかし、原発事故に関しては、必ずしもそうとは言えないかもしれない。そうだとすると、その原発事故の責任が誰にあるのかということが問題になる。

 責任の可能性としては、原子力安全委員会(委員長である斑目春樹氏)や、保安院、東電、首相などが挙げられるだろう。斑目氏や、保安院は、大震災が起きた当初、原発は爆発などしないだろうと過信していたそうだ。また、東電に原発の対応が託されていたのだが、当時、東電は会長と社長のトップが本部にいない状況で、緊急の判断をしなければならず、対応が遅れた。また、首相は原子力に関して専門的な知識がないので、結局、原子力安全委員会に従う可能性が高い。このように、状況は複雑であるため、責任の所在が誰にあるかをはっきりと断言することは難しい。つまり、責任の所在は非常に曖昧になってしまった。

 次に、この責任の問題を考えるのにあたって、まず原子力、そして原子力発電について考えてみる。原子力について重要なことは、悪用もできれば善用もできるということである。例えば、手塚治虫の「鉄腕アトム」の中で、原子力は、人間にとって望ましいエネルギーであるように描かれている。その時代には、原子力が未来に対する希望として考えられていた。それは、かつて戦争時に恐ろしい原爆と化していた原子力を、平和のために利用するということで、悪用から善用へという流れ、そして否定から肯定へという流れであった。しかし、3.11の大震災に伴う原発事故が発生し、だれもが原子力発電がいかに危険な存在であるかを痛感した。そして、原子力に対する見方はまた、肯定から否定へと移った。そのため、多くの人が原子力発電を否定するのも当然のことだろう。しかし、日本のエネルギー供給の現状を考慮すると、直ちに脱原発化することが困難であるのも事実である。経済産業省の資源エネルギー庁が発表している、「エネルギー白書」によると、2010年の原子力発電電力量は、日本の総発電電力量の29.2%を占めている。ここからも分かるように、原子力は、日本のエネルギー源の1つとして欠かすことのできないものなのである。

 このように、専門家たちの間や国民の間でも原発の再稼働の賛否分かれている中、先日(24617日)、ついに野田政権は大飯原発の再稼働を決定した。

 再稼働するにあたっては、メリットもデメリットもあり、それが良いか悪いかを一概に判断することはできない。しかし、大震災を通して原子力の悪の部分を知り、それでもなお、原子力発電に頼るというならば、現状の「無責任の体制」を克服する必要があるだろう。そしてそのためにも、講義の最後で語られたように、「安楽への全体主義」を超える精神が必要だろう。実際、原発を再稼働するか否かなどの主導権を握っているのは、首相(国)である。しかし、彼らは科学者(学者)としての知識は持ち合わせていない。だから、理想は、科学者と政治家の両者の資質を備えた官僚が主導権をもつことである。

 これに関して、マックス・ウェーバーによると、政治家は、善き目的の達成のために献身しなければならず、デーモンと結託して、結果に対して責任をもたなければならない。それに対して、科学者には知的誠実性が必要とされる、ということである。そして、議会制民主主義とは異なる、官僚たちによる「サブ政治」の場合、この政治家と科学者の2つの資質が求められているのである。

しかし、放射線量に関して、1ミリシーベルトという従来の基準がふさわしいと考えた小佐古氏の辞任からも分かるように、この2つが両立することは極めて難しいのも事実である。小佐古氏は、科学者としての誠実性を貫き通し、政治家を辞任した。

たしかにこのような事実はあるにせよ、国は、大飯原発の再稼働を決定した以上、責任をもって、これらの問題に取り組むべきである。そして、責任の所在をはっきりする必要がある。

 原発に関して、「安全が確保されれば再稼働してほしい」といった新聞記事をよく見る。また、国の安全基準が曖昧だとしばしば批判されているが、そもそも、何が安全で何が安全でないのか、つまり安全の範囲みたいなものがそもそも明確に定められているわけではない。また、絶対に安全だと断言することが不可能であることは、大震災を通して、人間の力をはるかに上回る自然の力が存在していたことから考えても、明らかである。そのため、絶対の安全が確保されたということを断言することは、現実において困難だろう。民主党の細野氏は、こう述べている。「”絶対に安全なものはないのだ”を出発点にすべきではないか、そして常に高いレベルの安全をめざして向上していく。これが、これからの安全規制のあり方だと思います」この言葉の中にもあるような安全規制のあり方と同時(理想はこれよりも先)に、責任の所在を明確にするべきだ。原発に反対する人たちの中には、この「無責任の体制」に怒りを感じて、反発している人もいるのではないだろうかと私は考える。責任を誰かがしっかり持ち、原発に対する危機管理能力を高めることが今後の課題だろう。

 

 

参考文献

 http://www.enecho.meti.go.jp/topics/hakusho/ (経済産業省 資源エネルギー庁)

 読売新聞(2012617日、628日発行)

 

 

 

経済思想小レポート「第2の文明開化」         

        経済学部経営学科3年 鳥本晃希 17100034   625

 

 201262628日の日経新聞を用いて論じていく。新聞では東京電力の勝俣恒久会長のインタビューが中心に書かれている。

 まず、講義でも議論されていた「責任」について、記事をふまえて述べていく。勝俣氏は「国と東電双方のリスクや負担が曖昧だと言われればそうだ」と述べ、「国と民間の負担をどう考えるかが課題だ」とも述べている。この発言からわかるように、責任体制は確立していない。講義では、責任が保安院にあるのか、それとも東電にあるのか議論していた。私は、責任の所在はケースごとに異なってくると考える。しかし、それだけでは曖昧になってしまう。そこで重要になるのは、政府と電力会社間での法体制・権限体制の確立ではないか。実際には、法制度改革は終わっていなかったし、国と東電の権限関係もあやふやであった。実際に、重大事故の対応は「事業主の自主的な措置」に任されており、保安院の支持を受けて、東電が実行するという形式は成り立っていなかった。こうした国と東電の曖昧な関係が、今回の責任の所在の曖昧さをもたらしているのではないだろうか。法体制・権限体制が明確になっていれば、国や東電という区別なしに、責任を負うべき人物が明確になっていたであろう。では、東電・国は本当に明確な法体制・権限体制を確立しようとしていたのだろうか。そうではないだろう。市場の原理が働かない「電力の幕藩体制」のもとで無責任の体質になっているのではないか。講義の中では、丸山真男氏の敗戦の分析を取り上げていた。敗戦の原因は「批判する力の不足」であった。市民は戦争をしたくなくても、止めることができなかったのだ。この批判する力でもって、無責任体制を克服することが、我々に求められている事である。そこで、「サブ政治」の問題を考える。具体的に、原発事故後に内閣官房参与へ任命された小佐古氏を考えたい。小佐古氏は、科学者かつ政治家という立場であった。マックス・ウェーバーによれば、科学者に必要なものは「知的誠実性」であり、政治家に必要なものは「善き目的の達成」である。小佐古氏は、福島県の幼稚園などでの屋外活動を制限する際の基準を「年間積算放射線量20ミリシーベルト」とした文部科学省の指針を受け入れられなかった。この事例は、まさに科学者と政治家が両立しづらいという事を示している。つまり、「サブ政治」の問題点が浮き彫りになったと言えよう。そこで、無責任体制を克服するためには、我々には「安楽の全体主義」を超える精神が必要であると論じられていた。私は、この「安楽の全体主義」を超えることが私たち市民の責務に思えてならない。つまり、私たちは不快なことから目を背けるのではなく、少数派の意見にも耳を傾けるような組織づくりをしていく必要があろう。

 次に、「悪」について述べる。講義では、「悪」は「悪意」ではなく「慢心」であると論じられていた。記事において、勝俣氏は「原発事故への備えは、現状で十分と考えていた」「15mの高さの津波の蓋然性はないと思っていた」「『B5b』のような考え方があればとも思うが、そういう発想は私を含めて抜けていた」と述べている。ちなみに、『B5b』は、原発の全電源喪失を想定した米国の安全対策である。こうした発言からわかるように、明らかに「慢心」がある。いわば、「悪」に陥っているのだ。米国で行われている対策を知りつつも放置していたことは、かなりの慢心に陥っていたように思える。この原因は、「電力の幕藩体制」と「原発の安全神話」にあるのではないか。記事においても、大手9電力間には競争はなく、電力会社間で配慮しあう体質があると書かれている。このような経営体制では、危機管理能力が低下してきてもおかしくない。また、原発が善用されはじめの頃、メディアを含め、我々は原発の危険性を語ることをせず、大きな期待を持って原発を受け入れた。こうした、「原発の安全神話」もまた、「慢心」を招いた1つの要因であろう。今回の東電の問題を機に、他の電力会社は「幕藩体制」を改善すべきである。

 次に、講義で取り上げられた、水俣病について考える。水俣病は1953年に発見されたが、政府が認めたのは、15年後の1968年である。政府がすぐに認めなかった理由は、近代化優先のためであった。私は、この判断には納得できない。経済発展のために、環境・人命を犠牲にして良いのだろうか。そもそも経済と環境はトレードオフの関係なのか。この論点において、原子力発電を考えてみる。原子力発電は、火力発電と比較して二酸化炭素の排出量が少ないという点で、経済と環境の両方の側面を満たすことができる。このことは、非常に魅力的である。講義では、「鉄腕アトム」の人工太陽を原子力発電にみたてて議論していた。具体的には、原子力発電は悪用もできるし、善用もできるというものであった。先の側面は善用の部類である。逆に、長崎・広島に落とされた原子力爆弾は悪用である。原子力発電の活用については、賛否両論であるが、私は、原子力発電を善用してもよいと考える。ただし、人命に関わるほど危険な物質を扱うのであるから、前半に述べた法体制・権限体制が確立している事、そして、施しうる安全対策は全て施す事が前提である。当然、『B5b』は施さなくてはならない。

 新聞記事では、東電が実質国有化となった今、東電は経営の透明度を高める努力が必要と書かれている。これは「幕藩体制」からの決別を意味していよう。一方、政府は短期的には十分な安全基準を確立し、長期的には総合的なエネルギー政策の中で、原発の位置づけを考える必要があると書かれている。私は、こうした改革を始めるにあたって、新たな根本的枠組みを国・電力会社・市民の共同で作る必要があると考える。既存の枠組みは市民の意思があまり反映されているものに思えないからである。テクノクラートによる「サブ政治」の問題を先で取り上げたが、原発に関する制度がテクノクラートだけによって決められるということがあってはならない。今回の実質国有化を契機にして民主的な枠組みを再構築して欲しい。こうすることで、「責任のあいまいさ」「電力の幕藩体制」「慢心」「無責任体制の克服」といった問題が改善していくのではないか。まずは、私たち市民が「批判する力」を高め、「安楽の全体主義」を超える精神を持つことが始まりではないか。今日の官邸を取り囲む市民デモを見る限り、新たな根本的枠組みの成立が多少なりとも期待できよう。また、このデモがソーシャルネットワークによって拡大していったことを考えると、ソーシャルネットワークによって「第2の文明開化」がもたらされるのではとすら考えさせられる。

 

 

 

原発のこれからを考える

〜大飯原発の再稼働を通して〜

平成2473

17100035 道林結花

 

 3.11の震災以来、日本人であれば原発について何度も考える機会があったと思う。しかし本当のところ自分の中で考えがまとまっていない人も多いだろう。私もその中の一人で、原発の未知の怖さを恐れる一方で、多くの問題が絡み簡単に全廃すべきだとは言えない、とも考えている。

 前述のとおり、原発を廃止するには多くの問題が絡んでいる。単に原発が怖いから全廃しようとは言えない。まず原発を廃止した場合、電力を賄えるのかという問題がある。震災後、節電の流れが起こり家庭や企業でも節電に気を配るようになった。このような自発的に行う範囲での節電は良いことなのだが、実際には政府が節電を強要するといった面もある。限りのある電力の中では経済の発展が妨げられるなど、節電の強制は、私たちの暮らしや経済に大きな影響を与えると言える。また計画停電の際には医療機器など電気で命をつないでいる人やその家庭などに大きな不安を抱かせた。もし電力の使用量が供給を上回ると突然の停電が起こり、計画停電を上回る危険性がある。このように事前に対応しなければならない問題が多くある。

他のエネルギーを利用することを考えてみると、震災以降、太陽光発電の普及を進めようという話が上がったが実際に可能だろうか。まず太陽光発電は一度設置してしまえば、燃料が不要であり、各家庭で電力を賄うことができる。しかし設置の際に金銭的負担が大きく、たとえ補助金を出したとしても、普及させるにはかなりの時間がかかるだろう。また、太陽光発電は雪の降る地域では冬に利用できないこと、北側は太陽との角度から太陽光を集めにくいことなどの問題点もある。原発は今回の事件によってデメリットが大きく知られたが、他のエネルギーにもデメリットがあるということを忘れてはいけない。

このようなさまざまな点を考慮してこれからの方針を決めなければならない訳だが、関西の大飯原発に関して次のような記事があった。

 

大飯3号機起動*8日にもフル稼働*「原発ゼロ」2カ月

関西電力は1日夜、大飯原発3号機(福井県おおい町、118万キロワット、加圧水型軽水炉)の再稼働に向け原子炉を起動した。昨年3月の東京電力福島第1原発事故後、定期検査を終えた原発の運転再開は初めて。北海道電力泊原発3号機(後志管内泊村)が定期検査入りのため停止した5月5日から続く「稼働原発ゼロ」は約2カ月で終了した。早ければ4日に送電を始め、8日にもフル稼働に達する。

 再稼働に反対する市民グループは6月30日から大飯原発につながる道路を封鎖。福井県警は1日、原発敷地に無断で立ち入ったなどとして、グループを排除した。先月29日には、首相官邸周辺で数万人が抗議活動を展開するなど安全性に不安を残し、反対の声がやまない中で起動を迎えた。

 関電は1日午後9時、核分裂を抑えていた制御棒を引き抜き、原子炉を起動。反対派による道路封鎖のため船で海側から敷地に入った牧野聖修経済産業副大臣や、時岡忍おおい町長らが立ち会った。牧野副大臣は起動後「緊張感を持って見届けた。国論を二分する中で政府としても避けて通れない一歩を踏み出すことができた」と述べた。

 2日早朝には核分裂の連鎖反応が持続する臨界に到達。関電によると、大飯3号機がフル稼働すれば、関西の電力不足は14・9%から9・2%へ縮小する見込みで、政府は2010年夏比の関西の節電目標を15%から10%に引き下げる方針だ。

 大飯原発をめぐっては、6月16日に西川一誠福井県知事から同意を得て、野田佳彦首相が再稼働を最終決定した。大飯3号機は昨年3月から定期検査で停止していた。関電は「外部への送電開始」を再稼働としている。大飯4号機でも再稼働の準備作業を進めており、早ければ17日に原子炉を起動。20日に発電を始め、24日にもフル稼働させる。

2012/07/02 北海道新聞朝刊全道(総合)より引用。

 

これから原発をどのような方針で扱っていくのか、国民の関心が集まる中、大飯原発の再稼働が進められた。今回の再稼働は他の原発にどのような影響を与えるだろうか。この再稼働によって、「再稼働の流れ」が起こり、いつの間にか原発を利用していたということは避けなければならない。それぞれの地域が反対意見とも真摯に向き合って検討すべきである。政府もまた流れに乗るのではなく、方針を決めた上で行動してほしい。現在の状況ではこれからどうなるのか、私たちもどう協力すれば良いのか見えてこない。

今回も安全性の不安から原発反対の人々が強く反対したが、反対派の意見は十分に尊重されずにここまで来た。震災から1年以上がたち、国民の関心が薄れてきているところがあるが、それでも多くの国民が原発への恐れを持っているということは忘れてはいけない。

実際、原発廃止は私たちの生活や経済への影響が大きく、今すぐ原発を全廃するのは難しいと思う。よって今回の再稼働にも納得できるが、だからといってこれからもずっと原発を利用し続けていいという訳ではない。現在の状況を変更するのには労力が必要であり現状のままになりがちだが、「続ける、続けない」ではなく、「どの選択肢を選ぶか」公平に見て決めてほしい。

 

 

 

経済学部 経営学科 松本凌(17100044) 2012/7/3提出

原発事故について

 原発事故発生直後、菅直人前首相らが過剰に現場介入をしたことが混乱を招いたとして、初期の事故対応について検証がなされた。一連の報道を見る限り、確かに菅前首相に非があるように見える。しかし、問題なのは誰が悪いのかではなく、なぜこのような拙速な事故対応になってしまったのかということだと思う。事故対応をする中心的な組織は保安院であったが、この保安院は原発を推進する経産省の傘下にある。事故のリスクを極力避ける努力をすべき保安院が、原発の安全神話に浸り、結果的に適切な事故対応が出来なかった原因の一つはこのような組織構造にあるのだろう。そんな中先日、原子力規制委法が成立し、経産省から独立した原子力規制委員会が新設されるそうだ。これにより、事故発生時には専門家で構成された規制委員会が中心となって指揮がとられるようだ。原子力ムラから距離を置く専門家たちで構成されているならば、私もこれが理想的な形態であると思う。規制委員会は今後、日頃から事故防止策をしっかりと検討し、事故発生時にも適切な指示や速やかな対応が出来るように努力してほしい。

また新聞記事を一部引用すると「原子力規制の関係者は「国家の命運や人命に関わる危機管理まで担う役職を引き受ける専門家がいるのか」と首をかしげる。事故で混乱するなか、規制委と首相の指示が混在する恐れもある。」。確かに政治家と違い、国民の手によって選ばれていない専門家たちに原発に関する危機管理を一任してよいのかという面もある。だが、今まで政治家ではない、つまり選挙で選ばれていない人間に国家の命運がかかるようなことを任せたことは数多くあるのではないだろうか。例えば、今現在も防衛大臣に民間の方が赴任している。国家防衛に関して知識が乏しい政治家よりも、専門家に委ねた方がよいという考えから野田首相はこのような人選をしたのだろう。原子力問題に関しては、特に専門知識が重要であることは言うまでもなく、私は専門家にきちんと役職を与えて規制委員として責任を持って原発の危機管理にあたってほしいと思う。専門家の適切な指示は何より説得力があり、国民も納得がいくのである。引き続き、規制委員会についての報道には注視していきたい。

そして、メディアでは最近、原発再稼働に反対する人々がデモをする様子が報じられている。SNSなどでの呼びかけにより、かなり多くの人が永田町周辺に集まったそうだ。きっかけはどうであれ、11人がきちんと国の根幹にかかわる問題について考え、態度で示すことは大切なことだと思う。個人的には、夏や冬の電力需要や日本経済に与える影響を考えると再稼働はやむを得ないと思う。今の生活水準を落とす覚悟が国民全体にあるのなら、再稼働する必要はないが、その覚悟はおそらくデモをしている人の中でも一部の人にしかないものだろう。もちろん再生可能エネルギーに比重を移す努力はするべきだが、それもかなりの月日がいることは目に見えている。ひとまず、規制委員会による厳正な安全評価を行い、合格した原発から再稼働をするべきだと思う。それと並行して、政府は再生可能エネルギー政策をどのように行っていくか、きちんとしたビジョンを示していく必要があるだろう。

 

<引用した新聞記事> 原子力規制ようやく 委員会の独立性に腐心 法案成立へ、3党最終合意(朝日新聞 2012615日 朝刊)

 

 

 

インフラ国有化論

経済学部経営学科

17100045 三浦正大

 

 2011311日、M9.0規模の大地震が発生し、東北地方東岸を中心に大津波が押し寄せた。大津波は岩手や仙台、福島、茨城などに甚大な被害を齎した。また、福島県海岸部にある福島第一原発も大津波を浴び、大量の放射性物質の滲出という弊害を起こした。これは、福島第一原発周囲30km50kmを何十年も立ち入ることのできない「死の土地」にさせる、まるでチェルノブイリの再来のような大事故であった。(正確に言えば、性質は全く違うものであるが。)

 このような大事故を起こした背景には何があったのだろうか。それは「原子力発電が民営であること」に問題があったのではないかと私は考える。今回のケースでいえば、福島第一原発は関東地方とりわけ東京に大量の電力を送っていた。従って、経営主は東京電力である。今回事故が起こった直接的な原因は、大津波が押し寄せたことによる建物の倒壊による炉心溶融である。つまり危険性の高い構造物に対して、あまりにも強度が低かったことが問題であるといえる。

近年では企業にも社会的責任を求められているようではあるものの、基本的に企業は営利(儲け)を目的とするため、利益を最大にするためには、リスク評価する必要があり、コストと天秤にかけてあまりにも回収リスクが高いものは犠牲になる。今回の東京電力のケースでも同様のことが言えるだろう。インフラ系の産業としては、ハッキング等情報操作系統の保護が重視されることが多いため、外壁等は有刺鉄線程度で十分と考えられがちであり、外壁等の強化はあまりにもハイコスト・ノーリターンであったのであろう。

そこで、今回の惨事を教訓に、インフラ(ここではとりわけ原子力発電所)の国営化・国有化を推進する。国有化を推進するメリットは、上記で述べたように非営利活動の積極性を増加させることにある。国家予算で原子力発電所を改善・補強できるようになるため、安全性の追求をより強固なものにできる。

 一方で、国有化することに対してデメリットもある。まず考えられるのは、意思決定機関であるトップ層の脆弱性である。原子力の管理は、直接的には原子力安全・保安院が務める。しかし、実際に役務機関に対して意思決定を施すのは、上部機関である経済産業省もしくは内閣府になることになる。現在のような不安定な国家の経営陣が意思決定を行うのは、東電の経営陣よりもいささか不安に感じられる。

 また、先に通ずることで専門性の無さが挙げられる。今回の一連の対応の中で、意思決定機関の専門知識の欠如が露わになった。それは東電でも同じことがいえる。東電の意思決定機関にも官僚等からの天下りは多くみられる。ただ、東電の経営層には正規の方法で成り上がった経営職員もいることは確かである。つまり現場知識や現場経験が強かな経営人もいる。一方で政府機関は管理業務が一般的である。政府機関となることで、現場知識や現場経験の殆ど無い経営陣が構成される、そしてその経営陣が意思決定を行うということとなる。

以下は、6月27日の北海道新聞の原子力発電所の実質国有化に関する記事の引用である。

 

東電国有化、1兆円投入 株主総会で正式決定(06/27 18:2806/28 09:09 更新)

 東京電力は27日に都内で開いた株主総会で、再建のため実質国有化を受け入れることを正式に決めた。政府は7月25日に1兆円を払い込む予定。筆頭株主の東京都が経営の透明性向上などを求めた4議案は否決されたが、議決権ベースで約14〜21%(速報値)が賛成し一定の支持を得た。他の株主による脱原発提案の賛成は約8%だった。総会ではコスト削減不足を問う声や、柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働を前提にした再建計画への批判も噴出。福島第1原発事故からの信頼回復の遅れや収益改善の難しさが浮き彫りになった。(北海道新聞)

 

 実質国有化が決定した今、日本政府の意思決定機関に実権が握られたことになる。先述したように、意思決定機関の脆弱性や専門性の欠如の改善が最優先事項として問われることとなるだろう。国有化を奨励すべきか危惧すべきかは測り難いところではあるが、国有化が必ずしも良い結果を招くとは言えないであろう。

 

 

 

専門家と政治家  米澤眞 17100051 2012.6/26

 

 2011年の東日本大震災において、福島原発事故の政府対応の遅れが問題になったことは記憶に新しい。これは、なぜ起こったのだろうか。原因の一つに、政治家と専門家の分離が考えられる。現代の複雑な社会において、政治家が専門性を追求するのは困難である。それゆえ、専門的な分野においては、政治家は専門家の知見に従い政治的決定を下す。一方、専門家は自らの専門性を活かし、政府に助言をするが、自らは政治的決定を下せない。とすると、この両者の関係性が、政治的判断に重要な影響を与えるのではないか。

 今回の福島原発事故の例では、政治家と専門家はどのような関係であったのだろうか。関連する記事から検証していく。以下は2012229日の記事の内容である。

 

 28日報告書を公表した福島原発事故独立検証委員会の北澤宏一委員長(前科学技術振興機構理事長)は、同日記者会見し、菅直人首相(当時)の福島第一原発事故対応について、東京電力が現場から作業員を撤退させる意向を示した際に東電に乗り込み、撤退を許さない姿勢を強く示して最悪の事態を回避したことを「首相の最大の功績」と評価した。同時に、現場の作業に過剰な介入をしたことについては「ほとんど効果がなかった」と厳しい評価を下した。
 首相を支えるべき原子力安全・保安院と原子力安全委員会の存在が希薄で、正確な情報を収集できなかったことが首相の疑心暗鬼を生んだという認識を示し、原子力安全委員長が原子力発電の推進側から選ばれてきた従来のやり方を見直し、かつ法律によって委員会がきちんと機能せざるを得ないようにすることの必要も強調した。

 

 この記事から、原発事故の政府対応の遅れ、不十分さは、専門家である原子力安全・保安院と原子力安全委員会の存在が希薄で、政治家である管首相が政治的判断を下すのに十分な情報が得ることができなかったことが原因であると読み取ることができる。では、こうした事態はどのようにして回避することができたのだろうか。一つに、政治家が専門性を身に着けるという対策が考えられる。しかしながら、政治家が各分野の専門家になるには莫大な時間がかかる上に、専門的な分野は無数にある。前述のとおり、それらすべてをカバーするのは不可能である。では、外部から各々専門家を雇い、政治家にするのはどうか。これもまた問題がある。なぜならば、専門家は、政治的経験がないため、専門性を重視しすぎた政治的判断を下す可能性があり、国民に不利益になることがあるからである。

 とすると、やはり専門家と政治家はそれぞれの役割を分担し、両者が十分に情報・意見を交換し合い、国民のために最も妥当な政治的判断を下すべきだったと私は考える。そのためには、専門家の体制を今一度見直し、緊急事態に備えて体系付ける必要があるだろう。今回の震災の例に限らず、政治家は何か政治的判断を下すとき、専門家と関係を密にとり、背景知識や情報を把握すべきである。

 

 

 

経済思想 第三回目小レポート                       

鈴木智哉 17100077 2012/06/29

1.はじめに

 今回のレポートでは今後の原発と学問の関係性のあり方を考えるにあたって、異なる二つの立場の大学教授の意見を参考にしたい。具体的には北海道新聞(2011411日)に掲載された、原発肯定派の北大大学院工学研究院教授の奈良林直氏と否定派の北大大学院経済学研究科教授の吉田文和氏の二人の見解について簡単にまとめ、それに自分の意見を付け加える形で議論を進めていく。

 

2.原発肯定派・否定派の二人の見解の相違について

 まず肯定派の奈良林氏は、原発は今後の日本経済を支えるために必要不可欠なものであり、今回の事故を反省するとともに更なる安全性を追求すべきだと主張している。彼の主張の中心には「原発は二酸化炭素排出量が少なく経済性に優れ、中長期的にみれば推進すべき」という考え方がある。天然ガス、石油などの化石燃料や、太陽光、風力などの新エネルギーは経済効率を考えると実用的なものではないと述べている。

 それに対し、否定派の吉田氏は一貫して原子力発電の危険性を指摘し、エネルギー政策の抜本的な見直しが必要だと主張する。彼は奈良林氏のいう経済性に関しても、原発は研究開発に多額の投資が必要なことや事故による莫大な補償を考えると決してコストが安いものとは言えないとしている。海外における太陽光や風力発電などの事例も参考にしつつ、今後は再生可能エネルギーへと舵を切るべきだと述べている。

 

3.二人の意見を参考にして

 私は原発否定派である吉田氏の意見に賛成である。以下ではその理由について説明する。

 奈良林氏がこの記事の中で問題にしているのは、「原発が停止した際に生じる短期的な経済的リスク」のみである。しかし、ここで問題にされるべきはそうした短期的リスクのみでないことは、事故から現在までに至るまでいまだに様々な問題が山積みにされていることからも明らかである。奈良林氏が目の前の利益のみを追い求めるのは、国家の活動の本質がビジネス、つまり金もうけが中心におかれていると考えているからであろう。私はそうは思わない。

 国家というのは、自国の金を増やすことよりも、国土や国民の安全を第一に守ることを考えるべきである。国家単位の金もうけが国土や国民を豊かにするので、原発を維持するべきという考え方は明らかな本末転倒であろう。原発の事故そのものが国土や国民を直接的に破壊していることは事実としてしっかりと受け止めるべきだ。

 そして、こうしたビジネス的な考えの方向性を改めるきっかけとなるものの一つとして学問があるのだと思う。私たちは多様な分野から原発を分析し、原発を稼働しなくても済むような方法を模索するべきである。

 

 

 

経済思想

3回小レポート

201272

経済学部経営学科

17100093 牧野杏美

 

 本レポートでは、始めに原発に関する講義内容と新聞記事の内容をまとめ、その後新聞記事の内容を講義内容をとおして捉えなおしたい。

 始めに、講義内容をまとめる。原発に関して最大の問題は、「サブ政治」にある。「サブ政治」とはメインの政治である「議会制民主主義」を経ないで、技術官僚たちの判断によって国策が決められるような意思決定のあり方である。原発問題では、首相は原発に関する知識が少なく、実質的判断は原子力安全委員会委員長の判断をベースとしていた。「サブ政治」においては、技術的に高度な知識をもったエリートたちが、非民主的な仕方で政治を行い、重大な政策を導く。この政治体系は、技術官僚(原発であれば電力会社、原子力安全委員会、保安院など)が科学的にも政治的にも有能であればうまく機能するかもしれない。しかし、このような科学と政治というふたつの資質に恵まれた技術官僚を常に登用しつづけることは困難である。ウェーバーによれば、学者(科学者)と政治家はまったく異なる資質を必要としている。学者(科学者)は、知的に誠実でなければならず、都合の悪い真実から目をそむけてはならない。対して政治家は、道徳的に悪い手段を用いてでも、事柄(政策目標)に対して献身しなければならない。これらふたつの資質を同時にもつことは困難だ。ところが「サブ政治」においては、これらふたつの資質が同時に求められている。よって、「サブ政治」によっておこなわれる原子力エネルギー政策は、この二つの資質をもつ人間を登用できないとき行き詰るのだ。

 次に新聞記事を紹介する。民主、自民、公明3党は613日、政府の原子力規制関連法案の修正協議を行い、原子力発電所の運転を原則40年に制限して廃炉とする政府方針に関し、見直しの規定をおくことで合意した。新たな原子力規制組織として創設する「原子力規制委員会」が運転期間を再検討する。規制委は、国家行政組織法3条に基づく独立性の高い3条委員会として有識者5人で構成され、再稼働の可否から原発事故の対応まで大きな権限を握る。中でも重大事故時に対応を一任される委員長の責任は重い。5人は、国会の同意を経て任命される。政府は、「原発推進」「脱原発」のいずれの立場からも極端な反発を買わない人材を選びたい考えだ。

 この原子力規制委員会を発足するとき問題にあがるのが、講義内容にみる「サブ政治」ではないか。規制委を発足させること自体は、専門知識をもつ「学者」が判断をするという点で原発への対応が迅速で的確なものへとなる可能性はある。しかし、この規制委のメンバー5人は国会の同意がなければ決定しない。つまり原発推進派や脱原発派がいる「政治家」である国会の議員たちが認めるメンバーでなくてはならないのだ。これは結果的に、「学者」として知的に誠実な人をよりも「政治家」という資質によった人が選ばれるということにはならないだろうか。そして、専門知識をもつ5人のみで判断をおこなうことは議会制民主主義を経ない意思決定となる。したがって規制委も原発問題を覆う「サブ政治」の問題の中にあるといえるのではないか。

 

 

 

経済思想小レポート(73日提出)

経営学部経営学科3年 17100102 渡辺俊太

 

 本レポートでは、前回の授業を踏まえて、原子力規制委法について論じる。 私個人としては、原子力発電は反対である。どれほど安全であっても、100パーセント事故が起こらないということはないし、現に、チェルノブイリや東日本大震災の福島原発の事故は甚大な被害をもたらしている。しかし今回は、賛成・反対は論点に挙げず、原子力発電所をこれからも利用するという仮定を前提に述べていきたい。

 

 前回の授業では、原子力発電の安全のために求められているものは、科学者(学者)としての資質と政治家としての資質であり、それを兼ね揃えたテクノクラートによる「サブ政治」がうまくいくことが安全への道だと言及された。

 しかしこの「サブ政治」にも問題がいくつかある。それは、本来は政府の下で働く官僚であるテクノクラートによる政策決定では、議会制民主主義の力が弱くなってしまうことや、責任の体制をうまく構築できないのではないか、というものである。また、マックス・ウェーバーが言うには、知的誠実性が重要でごまかさないことが美徳であるとされる「職業としての学問」と善き目的の達成のためにはデーモンと結託することも辞さない「職業としての政治」には全く異なる資質が必要であるので、そもそもこの二つは乖離するものであると言う。したがってこの二つの資質を兼ね揃えた優秀な人材がいたとしても、数が少ないので獲得し続けることができるかどうかについても問題だと言える。

 これらの問題に関して、2012621日の日本経済新聞朝刊の記事を引用して議論したい。まず「サブ政治」の有効性について考える。その記事によると、「管直人首相は12日朝、福島第1原発に自ら乗り込み、現場の東電関係者を問い詰めた。首相が現場で事業者直接指示を出したことが混乱を助長したとされる[1]」とあり、専門的知識のない、言い換えると、科学者としての資質のない政治家の意思により被害が増大したともいえる。こう考えると、やはり「サブ政治」的な方法が不可欠なのではないかと考えられる。

 そこで、原子力規制委法についてみていこう。これは同記事によると、「災害やテロなどで原子力発電所に重大事故が起こった場合の指揮権を新設する原子力規制委員会に集中させる。(中略)政治が介入する余地を小さくした[2]」というもので、この委員会の委員長は、首相をトップとした原子力災害対策本部の副本部長も兼任するという。また、この体制下では、「規制委だけが原子力施設内の事故対応について事業者への命令権を持つ[3]」ので、首相ですら口をはさむのは不可能である。

 以上から、この原子力規制委員会は一つの「サブ政治」の形と言えるのではないだろうか。この体制がうまくいけば、確かに事故対応は改善するだろう。

 しかし、やはり問題は存在する。一つは、上述のように、人材の確保の問題が挙げられる。この委員会の委員長の権限は非常に大きく、専門的知識も相当量が必要だと考えられるので、学問と政治のどちらにも精通している人間が必要である。一方で、この体制自体の問題も考えられる。この体制は、引用中の本文からもわかるように、事故対応に関するものである。私が思うに、事故が発生してからでは手遅れである。事故が起こることを前提とした体制ではなく、事故発生自体を100パーセント未然に防ぐことに力を注ぎ、その点で「サブ政治」的な方法を用いて意思決定などを行っていくことが重要なのではないだろうか。

 

 現在、原発の再稼働をめぐり、再稼働に反対の国民によるデモなどが起こっている。国民の信頼を得るためにも、事故対応について考える以上に、未然に防ぐことについて考える必要がある。そうしなければ、国民と政府の溝は広がっていくばかりであろう。

 

参考文献

日本経済新聞朝刊 2012621

 

 

 

201276

3.11大震災と原発事故

 

経済学部経営学科 17100110 丑屋亜子

 

 

 原発事故に対処するためには政府と東京電力、そして原子力の専門機関との連携が必要不可欠である。

 しかし原発事故の対応において連携はうまくいっていない。2011316日の朝日新聞によると菅政権と東京電力はお互いに不信感を抱いている。首相は「東電にすべてを任せていたら、勝手に作業を打ち切ってしまいかねない。それを防ぐには政府が乗り込むしかない」と発言している。また政府と東電が一体で危機管理にあたる福島原子力発電事故対策統合本部を東電本社内に設置して自らが本部長に就任した。監督官庁などの役所任せにせず、自ら現場に入って成果を出すというこの手法は東電への不信の裏返しである。

 東電は都合の悪い事実を隠そうとする姿勢が今回の対応から垣間見える。これは今に始まったことでなく、2002年には原子炉内設備の損傷隠しが発覚している。ここで重要となるのが原子力村の存在である。原発推進によって互いに利益を得てきた原子力村には進んで情報を開示する風土が育っていない。

 また原子力安全・保安院との連携もちぐはぐさが目立っている。保安院は経済産業省におかれた機関で商用原発の安全規制全般を担う。東電を監視する立場であるが、今回は当事者能力を欠いていた。福島原子力発電事故対策統合本部ができた後、保安院として記者会見を開くかどうかについて幹部は「もう我々は駒だから」と語っている。また情報開示も遅く、対応の鈍さが目立っていた。1999年のJCO臨界事故では原子力規制側である原子力安全委員会が緊急に現場で指揮を執ったのとは対照的である。また保安院は原発推進を担う経産省の下にあることから独立性が保てるのかと批判されている。

 今回の原発事故の対応がうまくいかなかった原因の一つとして各組織の連携がうまくできていないことがあげられるだろう。それぞれの組織は原発の安全性よりも自分たちの地位や利益を重要視しているようである。皆で協力して原発の安全性を確立するという姿勢が見られない。安全規制を担う保安院が原発推進を担う経産省の下にあることや東電の原子炉内設備の損傷隠しなどからも、日本は原発に対する安全意識が低いことがわかる。しかし今回の事故からも明らかなように放射線物質などの被害は甚大なものであるので、原発の安全性の確立は非常に重要である。原発のあり方を一から考え直さなければならないだろう。

 

参考

・朝日新聞 2011316日朝刊 3ページ『危機管理、後手 政権・東電、不信の壁』

・原発に責任、持てますか?トップをめぐる「政治」と「科学」 橋本努

http://synodos.livedoor.biz/archives/1750944.html

2012628日訪問

 

 

 

2012/7/18提出

経済思想小レポートB

経済学部経営学科3年 本間浩大 17100143

 

 今回のレポートでは、東日本大震災による原発事故を踏まえて、原発の是非について改めて考えたいと思う。

日本では1963年に初めて実施され、以降急速に国内に広まった原子力発電であるが、2011年の大きな原発事故の後、現在も大飯原発の再稼働や、それに反対する運動など、原発に関する問題は大きな話題となっている。

 エネルギー資源の乏しい日本は、電力需要の多くを原発によって賄い、そうすることで、高水準で便利な生活を享受してきた。しかし、3.11の大震災によって、今まで安全であるとされてきた原発が、放射能漏れなどの大問題を引き起こしてしまった。被害は放射性物質による汚染や風評被害、原発近隣住民の避難など書ききれないほどに上る。さらに、71日の北海道新聞朝刊31ページの原発被害者に関する記事によれば、東日本大震災関連で自殺した人は昨年6月から64人に上る。そのうちの1人を特集したこの記事の中では、原発事故によって自宅が計画的避難区域になり、仕事場であった養鶏場を失い、希望をも失ってしまった妻が自殺してしまい、夫ら遺族が東京電力を相手に裁判を起こしたと記載されている。

 このように原発事故の被害の全容はまだ確定しておらず、被害への対応も完全には行われていないと感じる。さらに今原発を再稼働したところで、安全が100%保障されているわけではなく、不信感はぬぐえないのではないか。

ただ、現状では原発に頼らなければ、必要な電力の確保は難しい。そこで、私は徐々にではあるが、原発に頼らないような社会を作っていくのがよいのではないかと考える。原発に頼らざるをえない状況を、火力や水力・風力や太陽光など、様々なエネルギーによる発電の設備や技術の改良を進めることで変えていくことが、現在そしてこれからの日本に必要なことなのではないだろうか。原発は我々に便利な日常を提供してくれていたが、そのリスクがあまりに大きすぎたのではないかと、震災後の惨状を見て自分は感じた。もちろんそう簡単に電力源を移行することはできないだろう。やはり原発とその他の発電では、発電量も大きく差が出てしまうと考えられるからだ。その点についての解決策は、我々国民11人の節電等の意識改革によって電力消費量を減らすしかないと感じる。むしろ今まで電力を使いすぎていたのではないだろうか、もっと少ない電力消費量でも我々は生活していけるのではないか、と今一度みんなが考える必要があると私は思う。

 原発は非常に便利な面がある一方、今回のような災害や事故による被害は計り知れないものがある。やはりそのリスクと向き合う必要があることを今回の原発事故の教訓として、今後は徐々に原発への依存度を減らし、最終的には100%安全な方法での発電を望みたいと改めて感じた。

 

 

 

3.11大震災と原発事故を考える

経済学部経営学科 17100169 木内勝也

 

.はじめに

 原子力発電のための燃料となるウランの採掘可能年数は残り百数十年といわれている。われわれはこの数字をどうとらえるべきであろうか。明治維新から140年余後の現在、少なくとも物質的な生活水準ははるかに向上し、人々は原子力発電をはじめとする科学技術の恩恵に授かるばかりか、本能的に安全神話に対して妄信的に従属することで、安楽を貪ってきた。

 しかし、その神話は脆くも崩れ去った。2011年3月11日に、日本で未曾有の大震災・原発事故、それに伴う電力不足や放射線問題への脅威が列島各地を襲ったからだ。原子力発電の見せかけの安寧秩序に騙されていたことを人々は気づき始めた。また、明治維新から現在までの時間が過ぎたらエネルギーシステムはどう変化しているのだろう、社会全体のみならず個人レベルでも考え直す時が来た。

 

2.現状分析

 そもそも、電力の供給システムは、江戸時代の体制にならって「電力幕藩体制」と呼ばれている。すなわち、エネルギー業界は電気事業連合会という「幕府」のもとに東電・中電・関電の御三家があり、加えてお抱えの御用学者や監督官庁などが集まって「ムラ」を作り原子力にまつわる利権にありつく構図を形成している。電力幕藩体制の下では、現実のエネルギー需給と無関係に「国策」として原子力政策を進めている。次の章では、電力幕藩体制につながる流れを、二つの歴史的視点から振り返る。

 

.歴史的転換とその経緯

3−1明治維新

 江戸時代にみられる保守的社会では、「子は親の背中を見て育つ」もので、親をモデルに生きていけば、例えば大工の息子は大工として生きていける社会であった。しかし、明治維新で社会は産業転換を迎え、親から学ぶだけでは、幸せを享受できなくなってしまった。そこで必要になるのが、学問を通して教養を深め、市民になることである

 福沢諭吉によれば、学問をすべき理由は二つある。一つには、幕府という権威にひれ伏さないために学問を通して「対抗エリート」になるため、もう一つには、物質的ではない精神の高揚という「実用」を得るためである。福沢は、ひとり一人が学問を通し、知のあり方を問い詰めていくことで、がちがちに凝り固まった封建的な社会を変えていけると胸を張る。

 キーワードは「横議横行」である。意思決定システムを鈍化させる上意下達ではなく、それとは反対概念として、勝手気ままに動く、いわば「脱藩」が必要なのだという。 

 

3−2敗戦

 丸山真男による第二次大戦の敗戦の分析では、社会全体としては勝つ見込みをもっていないにもかかわらず、戦争に突入していった経緯が示されている。敗戦は、日本の軍国主義の精神形態を表すもので、実際には戦争を望んでいないにもかかわらず、青年将校を初めとする軍部によって戦争を既成事実として受け入れざるを得ない状況が築き上げられた。さらに厄介なのは、日本人は受け入れたものに対し全力を出すことだ。これが更なる悪循環を生んだ。

 分析から得られた教訓は、批判する力、すなわち自分自身が責任を全うする立場があるということに対し、意識の欠如があったということだ。この無責任の体制は、現在の電力体制と重なる。

 

4.歴史的転換を踏まえて

 明治維新と敗戦の二つの歴史的な事象から、電力幕藩体制を再認識した。ここでは、どのようにその意思決定システムが成立しているのかを考察する。

 幕藩体制意思決定システムはテクノクラートによって成り立つ。テクノクラートには、@政治家としての資質、A科学者としての資質が必要だという。両方の資質を満たす人材はそうはいないため常に人材不足にある。現在の政治システムは、技術的に高い知識を持つエリートたちが、非民主主義的なやり方で重大な政策を担う「サブ政治」になっている。今回の原発事故で明らかになったように、テクノクラートによる意思決定システムは「責任の体制」が取れていないのである。

 原子力ムラでは、「私の責任ではない」という考えが強い。なぜ、事故が起きたのか踏み込んだ議論が行われていない。それは各組織に責任がバラバラに存在しているのであり、テクノクラートの責任能力のなさが露呈した結果である。

 それでは、能力不足にもかかわらず無責任にも政治に携わる彼らこそが悪なのだろうか。われわれは哀れな子羊として流されているだけなのか、次の章で考えてみたい

 

5.悪用と善用

 今回のケースでわかったように、悪とは悪意をもって他者を陥れようとすることではなく、本質的な危機管理の能力の欠如であり、その根本にある「慢心」である。

 『鉄腕アトム』の最終話で、アトムは暴走する人工太陽を止めるため、自ら爆弾を抱いて飛び込んでいく。この人口太陽はまさに原発ではないだろうか。人口太陽は間違いなく、人類に恩恵を与えていた。その意味で、悪用ではなく善用といえる。しかし、効果は一時的なものだった。

 ここでもうひとつ悪用の例を示すために、6月2日の朝日新聞の朝刊記事を引用する。

 

 鉄腕アトムと鉄人28号の違いは、アトムは正義の味方だが、28号は正義の味方にも悪魔の手先にもなる。だれがリモコンを持つかで変わる。原発を再稼働するなら、原子力安全・保安院など事故を招いた人たちを一新しないといけない。

 

 原発はそのとてつもないパワーがゆえに、人類にとって救世主にもなるし破壊者にもなりうる。今、原発の「リモコン」を握っているのは資質を欠いたテクノクラートである。筆者は、本能的に意識が向きやすい安楽に拘泥するために、安全神話を盲目的に信じるわれわれ自身の根底にある「慢心」こそが不正義であり、悪なのだと説く。

 

6.おわりに

 藤田省三が言うように、「安楽への全体主義」が日本人の間に広がったことで、原発への反対の声も薄れていった。得体の知れない科学技術に従属し自ら考えることを放棄することで、人々はつかの間の安楽を手に入れる代わりに、経験という歓びを失った。

 明治維新から現在まで、物理的な生活水準が飛躍的に向上したように、今から百数十年後の将来、さらにわれわれの生活は想像も付かない変化を遂げていることだろう。その意味で今回の大地震と原発事故は、新たな転換期なのである。

はじめに、で述べたようにウランの採掘可能年数も百数十年である。今回の件で懲りることなく、これからも原子力という人工太陽に頼っていくべきだろうか。人工太陽が暴走したとき、アトムはいてくれるのだろうか、あるいは暴走する太陽を制御しうるアトムの巨大な力は、鉄人28号のように悪意をもってわれわれに襲いかかってくることはないと断定できるだろうか。

 

 星新一のショートショートに「おーい、でてこーい!」という作品がある。最後にこのあらすじを残すことでこのレポートを終えたい。

 

――ある日、深い穴が見つかった。どこまで深いかわからないほど深く「おーい、でてこーい」と呼びかけても返事はない。人々は試しに穴の中にゴミを捨て始めたが、穴が埋まる気配はまったくない。これ幸いと、原発の廃棄物などあらゆるものを捨て、おかげで町は繁栄した。ある日、青年が穴を通りかかると、「おーい、でてこーい!」と叫ぶ声が聞こえた。気のせいだろうか、声のした方向から小石が彼をかすめて落ちて言いたことに気付かなかった…

 

自分たちの横をかすめていく小石の存在に気づけるか否か、我々はいま問われている。

 

 

 

経済思想3回目レポート 

原発と市場化

71日 17100174 佐々木康太

 

原発2基分 全量買い取り開始 再生エネ急ピッチ

    201272 朝刊

   太陽光、風力など再生可能エネルギーの普及を促す「固定価格買い取り制度」が1日スタートし、全国各地で大規模太陽光発電所(メガソーラー)が運転を開始した。京都、群馬でソフトバンクの子会社が発電を始めたほか、新潟、福岡でも地元自治体や民間の発電所が稼働、再生エネルギーを積極的に活用する動きが本格化した。 

   ソフトバンクの孫正義社長は一日、京都市の発電開始式典であいさつし、熊本県と長崎市にもメガソーラーを建設すると表明。島根県には風力発電所を新設することを明らかにした。買い取り制度開始を受け、再生エネルギーによる発電が今後も拡大しそうだ。

   ソフトバンク子会社が運営する京都市の発電所は、敷地面積八万九千平方メートルに広がり、発電能力は二千百キロワット。送電網と接続する際の出力は約千七百キロワットを想定し、増設も予定している。群馬県榛東村の発電所は、約四万九千三百平方メートルの敷地に発電パネル約一万枚を設置した。

   ソフトバンクが公表した発電所はこれで十一カ所。孫社長は「公約したことは必ず守る。ぜひやってほしいという土地があればさらに増やしたい」と強調した。

   新潟県が地元の阿賀野市に建設したメガソーラーや、芝浦グループホールディングス(北九州市)が運営する福岡県嘉麻市の発電所も相次いで発電を開始した。経産省は二〇一二年度の再生エネルギーによる発電出力の増加分を、原発二基分の二百五十万キロワットと試算している。

   買い取り制度は、再生エネルギーでつくった電力を電力会社がすべて買い取るよう義務付けた。買い取り費用は八月分の電気料金から利用者に転嫁される。月三百キロワット時を使う家庭の場合、地域に応じて七十五〜百十一円が上乗せされる。(http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012070202000109.html:東京新聞201272日朝刊:閲覧日201272)

 

 

 一連の原発問題が市場の失敗であり、新自由主義の失敗であるという論調は多い。曰く小さな政府推進によって政府の能力が下がり、原発事故の収束に失敗した、あるいは電力自由化、民営化の結果による失敗である、などである。しかし実態はそうであろうか。新自由主義における政府とは、国民の生命の保障すらできないような政府を言うのか。そもそもの問題として日本は果たして新自由主義国家であるのか。新自由主義国家であるとして、電力市場は充分に自由化がなされていたのか。国民の最低限度の生活の保障すらできないような国家であるならばそれが社会主義国家であろうが、新自由主義国家であろうが、そもそも国家の失敗となるだろう。新自由主義と無政府主義は全くの別物である。また以下でも触れる通り、日本の電力事業の自由化は郵政民営化と同じように不徹底なものであった。

 現在日本の電力供給は事実上の地域独占である。これは新自由主義的立場からすれば全くその理念に沿うものではない。これは郵政民営化の失敗の際と似ている。民営化したのは良いが規模の大きいまま分割したために、事実上の公企業と何ら変わりの無い状態なのである。結果電力市場への参入は規制されていたと同然であるし、自由な市場は実現されていなかった。そこで事故後に再生エネルギーの利用促進ということをお題目として、送電、発電で分離し、発電した電力を全て送電企業が買い取るようにして電力市場の自由化を促進させるのが上の記事にある「固定価格買い取り制」である。ただしこの制度は無条件に新自由主義的というわけではない。政府による価格調整、全ての電力を買い取らせる強制力を政府は持っているからである。すなわち、政府が「賢人政治」を実現できるという前提のもとに成立した制度であるという意味で、「固定価格買い取り制」は新自由主義的な政策として不徹底なものであると言えるのではないか。

 以上より私が主張したいことは、まずは完全な電力市場の自由化である。すなわち売りたい人が売り、買い手は好きなように商品を選べるというシンプルかつ至極真っ当な市場のシステムの導入である。その市場において政府がやらなければならないことは情報の対称性の実現や、不当な独占が生じないよう、常に自由な市場を維持するための介入、あるいはテコ入れをし続けることである。断じて何かを政府の権力によって規制したり、促進したりすることではない。語弊があることを認めて言えば、自由な市場を守るための政府権力の行使である。果たしてこれが近年言われている、政府としての能力が欠けている「小さな政府」と同じであるかは疑問ではあるが。

 ただし、ここで一つの問題が生じることを言わなければならない。結局我々は発電手段を原子力に頼って良いのかどうなのかということである。しかし、私は経済学がその答えを求めてはならないと思う。原子力というものの安全性をどう判断するかはまずは科学者や技術者、そして民意である。経済学的立場から効率性如何でその有無を判断することは経済的利益を求めて採用されたゆとり教育と同じような害悪をもたらす。(最もゆとり教育は、経済的利益すら得られなかったという意味で経済的にも完全な失敗であった)。したがって経済学が提供できうるものは原子力そのものについては無いだろう。繰り返しにはなるが経済学が導き出せるのは単純に円滑な自由市場をどのようにして提供し、市場の失敗が起きないような構造を考案するだけである。そこで原子力が民衆の同意を得られず、科学的にも認められないものであれば、自由な市場は、見えざる手によって原子力を市場から締めだすであろう。重ねて言うが、市場の判断に国家が介入してはならない。例え経済的に効率が良いとしても、人々の効用を得られないのであれば、商品は市場から撤退せざるを得ない。締め出される原子力を国家が守るようなことはあってはならないのである。

 

 

 

経済思想レポート(73日提出)

17100175 経済学部3年 川嶋 花

 

311日の原発事故は日本で起きた戦後最大の悲惨な出来事のひとつといってもいいだろう。しかしこの事故が私たちにもたらしたのは悲劇だけでなかった。その証拠につい先日、官邸前で数万人規模の原発再稼働反対のデモが起きている。原発事故は私たちにこれからの原発について考える機会をもたらしたのだ。

原発は危険だ、という考えはチェルノブイリでの原発事故があってから日本人だけでなく世界中の人々に生まれたと思う。実際、私も原発は危ないからやめた方がいいと思っていたし、早くから原発の危険性について主張していた学者もいたが、それでも政府が原発を停止しなかったのは、日本の電力の3割ほどが原子力に頼っているし、火力発電より原子力発電の方が圧倒的にコストが安いからというメリットがあったからであった。原発事故が起こる前までは日本のこれからの電力の多くを原子力でまかなっていこうという方向であったことは否定できない。それが、原発事故が起こってからは、原発の危険性について再度見直され、今まで何気なく原発は危険だ、と思っていた人たち(私も含め)が、どうして・なぜ原発は危険なのか?を深く知る機会が増えたし、上記で述べたように原発再稼働反対のデモも起きている。このような国民の原発に対する声のおかげで原発に関する議論が至る所で活発になっている。例えば電力会社の株主総会でも原発の再稼働について議論が行われた。

 

「岩根茂樹副社長は、関電管内のすべての原発が止まれば、燃料費など年間9000億円のコスト増になるとの試算を示し、『再稼働しないと持続的な経営は難しい』と訴えた。(中略)浜岡原発について、水野明久社長が『徹底的な安全対策の上で、原子力を引き続き重要な電源として活用することが不可欠』と津波対策工事の終了後の再稼働に理解を求めた。(中略)沖縄を除く9電力会社が株主総会を開き、原発再稼働に反対する株主提案はいずれも否決された。」(読売新聞・2012,6,283)

 

この記事によると電力会社は火力などの電力に比べ原子力発電が低コストであることや、原発を廃止することで自会社の経営が困難になることを理由として原発を再稼働するように主張している。そのため原発を廃止したい株主たちの提案をすべて拒否している。

もし原発を廃止したとしたら、火力や風力、太陽光などを使って電力を供給することになるだろう。そうするとコストが原子力をエネルギーとして使っていたときよりもコストはかなり高くなる。それに自然力である風力、太陽光などは天候によって左右されやすいので安定した電力を得られないだろう。だから電力会社の言い分はとてもよくわかる。

しかし、原発は安全だから稼働しても問題ないと言っていたにも関わらず実際311日に事故は起こったのだ。これからどれだけ原発を安全に稼働しても何が起こるかわからない。またあの時のような、もしくはあの時以上の事故が起こるかもしれない。電力会社はもっと前向きに株主、国民の声を受け止め、多少コストが増えても、経営が困難になっても原発に代替するようなエネルギーを見つける義務があるはずだ。

 

311日の原発事故を無駄にしないためにも、私たちはもっと原発について議論すべきである。そしてまた電力会社、政府も原発に固執しすぎず新しいエネルギーについて検討することが大切である。

 

 

 

原発再稼働の是非

鈴木雪丸 17100178 2012.07.02

 

   定期検査で停止中だった関西電力大飯原子力発電所3号機(福島県おおい町)1日、再稼働の作業に入る。昨年の東京電力福島第1原発の事故後、原発が再び動き出すのは初めて。55日に北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村)が停止して以降、国内のすべての原発が止まる事態は約2カ月ぶりに収束する。(中略)

政府は大飯原発が確実に再稼働するまで、関電管内の最大使用電力を猛暑だった2010年夏に比べ15%節電する目標を掲げている。関電は34号機が再稼働すれば電力不足はほぼ解消するとの試算を示しているが、今夏の気温や稼働状況によっては電力需給はなお綱渡りの状況が続く懸念がある。(『日本経済新聞』2012.7.1朝刊)

 

 東日本大震災以降、原発の是非を巡る論争は依然として続いている。しかしこの論争は震災以降に限った話ではなく、もっと以前から紛糾している問題であるが、中でもその焦点は安全性についてである。

 震災以前までは「原発事故はまず発生しない」とする考えがどこか優勢であった。そして原発依存度は上がり、その安全神話はますます加速していった。「原発は危険である、地震国である日本では震災は避けられない」といった懸念は押しつぶされていたのである。

 なぜこのような楽観視がなされていたのか。これは情報の偏りに原因があると考える。震災以前、原発関連の事故は多数発生していた。しかし昔はこうした事故発生の報告を義務付ける法令が制定されておらず、トラブル隠しによって情報は国民に下りてこなかったのである。しかし報告を義務付ける法令が施行され、経済産業省の調査が入るようになるとより悪質な隠ぺいが行われるようになる。しかもその隠ぺいは電力会社だけではなく、国が関与していたものもあったのである。

 さらに、国家の根幹を支える電力産業には国家による支援が不可欠でありまた、大きな責任が問われる。にもかかわらず、震災後の国の対応は曖昧なものであり、「原発は構造上爆発しません」、「放射能漏れはありません」、「ただちに影響はありません」などの返答が国民に対してなされたのである。

 責任、つまり権限はどこにあるのか。これがはっきりしていなかったことが、原発事故への対応が遅れた最大の原因だと私は考える。震災以前に事故が起こった時も、国のとれた対策は電力会社に謝罪をさせることしかできなかったのである。専門知識を持たない政治家、十分な調査のできない原子力保安院、利益を追求する電力会社などがそれぞれ独自の意思決定を推し進めたことで、肝心の安全性はないがしろにされてしまった。そして最終的な決定は結局、原子炉を保有する電力会社に委ねられ、事故を収拾できないという事態に陥ったのである。

 今後、新しく原子力発電所が建設されることはあまり考えられないが、すべての原子炉の廃炉が完了するまでは原発問題と向き合わなければならない。また代替エネルギーが確立された後も、電力の安定供給と安全性についての責任の所在を明確にする必要がある。迅速な意思決定を下すシステム、組織の構築が急がれていると私は考える。

 

 

 

学生番号17100192

 経済学部経営学科3年 藤崎祐貴 

73

経済思想レポート

「原発について」

〜再稼働を考える〜

 

『福井県の西川一誠知事は12日、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)を視察した。東京電力福島第1原発の事故を受け、関電が実施した安全対策などを確認するのが狙い。14日に全員協議会を開く福井県議会や、おおい町の時岡忍町長の意見を踏まえ、知事は週内に再稼働に同意する考えを表明する見通し。知事は視察後、原発の安全対策について記者団に「県の原子力安全専門委員会(委員長・中川英之福井大名誉教授)の報告書に沿った対応はできていると思う」と語り、安全性は確保されているとの認識を示した。』2012/6/12 日本経済新聞

 

1.原発再稼働問題について

 国民の生活を守るために原発の再稼働は必要である。これが日本政府としての判断であった。この判断に基づき、大飯原発の再稼働が決定した。

 今や原発は日本の重要な電源装置であり、国民生活を支える一翼を担うものである。大量の電力を消費し、生活を送っている現代社会において、原発の電力の喪失ということが国民に与える影響は大きいものである。事実、現在より多くの原発が稼働していた一昨年でさえ、節電を迫られる事態となっていたのである。

 しかしここには、「安全性」という最も考慮しなくてはならないものが欠けているように思われる。はたして原発を動かすということと、安全性を保つということは両立しうる概念であろうか。

 

2.安全性について

 過去の度重なるデータや報告の隠蔽や改ざんが明るみになった現在、日本の原発は安全であるという神話は、もう遠い昔のことのように思われる。安全であったわけではなく、安全であるということにしていたのである。実際、東日本大震災での福島原発の事故も、想定外の事態が相次いで起こったのかもしれないが、結果としてこのような惨事になってしまったのだから、やはり安全ではなかったのである。

 今回の大飯原発の再稼働に際して、安全性というものが検討された。これは当然のことであるが、はたして仮に安全ではないとしたら、原子力安全専門委員会は、原発を再稼働すべきではないとの意見を表明できたのか。政府や電力会社から再稼働への相当な圧力がかかっているような状況で、そのような意見は表明するのは非常に困難であると思われる。

 

3.県知事の行動について

 何か大きな事態が発生した場合や、判断を迫られる場面で、総理大臣や県知事などのトップといわれる人間がその現場に行くというのはよくあることだが、これは単なるパフォーマンスの一環であろう。福島の原発事故の際も当時の管総理が現地を訪れているが、これは実際問題として何も意味のない行動である。現地に行くぐらいならば、政府機関にとどまり、全体の指揮・判断をするべきである。

 今回の知事の行動では、現地を訪れ、電力会社社長からの説明を聞き、原子力安全専門委員会の報告通りにできていたため、安全性が確保されているとの認識を示しているが、知事や社長には原発が安全かどうかを判断するための知識が十分に備わっているとは到底思えない。ましてや、原子力安全専門委員会から報告されたことを理解し、その全てを現場でチェックしてはいないだろう。しかしながら知事は原発は安全だという。社長や知事が登場し、パフォーマンスとしてはよいものであると思うが、ここには何が何でも原発を稼働させたいという思惑が見え隠れいていると思われる。

 

4.結論

 結論として、私は現状での原発の再稼働に反対である。確かに再稼働させない限り、国民生活の質の水準を維持・向上させることは困難である。しかし、それ以上に国民を守るということのほうが今は重要であろう。国民は原発がない状況ならば、それを考慮した生活や、技術革新により消費電力の少ない製品の開発、代替エネルギーの模索ということに今までよりもより積極的に取り組み、安全で安心できる生活を送ることができるはずである。実際、ヨーロッパ等の国々では原発のない暮らしを十分に送ることができている国や、原発廃止に傾いている国もあるので、そのような国を参考にすればよいのでないか。

 

5.残された課題

 私は「現状での」という条件を付けたうえで再稼働に反対であり、政府や専門機関の体質が変わり、情報の開示や調査がよりクリアに行われるようになり、そのうえで安全性が確保されているとされるのであれば賛成である。

 しかし、その基準をどう設けるのかということは大変困難なことである。何をもってクリアになったかという判断は難しい。なので、この先も原発についての考えを深めていくことが求められる。

 

 

 

201273日 細越大毅 17100301

『原発問題について考えること』

 

 これから「原発事故を考える」と銘打たれて行われた講義を踏まえ、新聞記事を用いて考察していきたいと思う。講義では、文明の視点で3.11を捉え「第二の文明開化」、「第二の敗戦」などと歴史的主要トピックと比較して考えることの有用性や、福島第一原発事故は無責任の体制であると論じられること、安楽の全体主義に陥る危険性、とりわけ原発問題は「鉄腕アトム」で描かれたような単純な「悪」によって引き起こされたことではなく、私たちの「慢心」が原因であることなどが論じられた。

 私がこれまでの原発問題で一番強く感じることは、国民が意識的、無意識的に自己と他者が分断されてしまったことを自覚せざるを得ないということだ。原発問題には放射能汚染や電力不足、責任の所在など様々な問題を孕んでいるが、とりわけ国民の関心の強い放射能汚染についてのコミュニケーションの分断が顕著だ。これは専門家の間でも放射能汚染が人体に与える影響の基準が曖昧で統一見解がないこと(それゆえ放射能は不可能性に満ちている)が、そもそものはじまりのようにも思うが、それ以前に専門家の価値、その他諸々が相対化されてしまったことで、専門家の言説(他にもマスメディアの報道など)にそれほど価値を置かない人が多数生まれていたこと、その相対主義の気運が原発事故で露骨に顕れたと見るべきかもしれない。いずれにしろ、原発事故以前ではわかりあえる存在だと思えていた他者が、生命の危機が突如訪れたとも言える極限(テロられたともいえる)状態に陥ると全くわかりあえない存在だったのだと強制的に自覚させられてしまったのである。これを不幸と捉えるか、それとも人間の本質を一段階深く捉えられるようになったと達観できるかは人それぞれだが、原発が引き起こした国民を巻き込む問題の一つだということに疑いようはない。

 以上は「信用できるものは何か」という問題としても捉えられる。福沢諭吉が「学問のすすめ」で論じた、「学問」の必要性はエリートに対抗するためだという以前、原発問題により、「私という存在は他者の信用に足りるのか否か」を確かめるためにも、広く「学問」の価値が存在欲求にまで高められたと見ることもできる。そこで今夏から導入される予定の原発問題についてのDP(討論型世論調査)が、僅かではあるが国民の意識を前進させる可能性を秘めていると考えられる。DPの導入に当たっては「やらせ質問、参加者の動員が問題化」したこと、パブリックコメントが「関係団体などによる組織的な意見、極論が多いのではないか」との見方が広まったことを背景にしている。もちろんDPには課題が多い。「公平・中立な情報提供、議事運営」は可能か、「質問に応じる専門家の人選のバランス」をいかにとるか、時間的、肉体的に参加コストが高いため、参加者のバランスが偏るのではないか(裁判員制度のように主婦や高齢者への偏りの懸念)など枚挙にいとまがない。しかし、熟議、討論し合うことで参加後の知見が深まり、国民の知が底上げされると期待できるのは確かだ。今こそ国民は学ばなくてはならない。他者との分断を乗り越えるため、信用を再構築するため、私たちは学ぶ困難から目を背けず直視し、安楽の全体主義から抜け出し、果敢に挑み続けなくてはならない。原発問題は、日本人に危機からの再出発が可能かどうかを問う絶好の機会として捉えることができる。国民一人一人の真価が問われている。

 

参考資料

・朝日新聞(20126207面)『「討論型世論調査」を導入』

 

 

 

 

 

 



[1] 日本経済新聞朝刊 2012621日 3p

[2] 同上。

[3] 同上。